昭和40年10月23日 月次祭
教祖の神様のみ教えに、「変人になれ、信心は変人にならぬと信心は出きぬ。信心とは直い事じゃ」と仰る。変人になるという事。どういうような事。これは、んー、いよいよ、小倉の初代桂先生のご信心を、現代に頂くというような、あー事が言われますが、この御教えなどを本気で頂かせてもろうたら、桂先生のご信心を頂くという事になると私は思う。確かに変人ではあるなと。ね。それが、今の私共が考えますと、少し、えー、行き過ぎではないかと。変人ぶりがあまりにも、おー、過ぎはしないかと云ったような事が、あー言われ、又、思われしますけれども、おー、それでなからなければ、桂先生ご自身が神様を身近に感じ頂かれることが出来なかった。そうされる事によって神様を頭で分かるだけではない、心で分かるだけではない、桂松平先生自身のこの、おー、体、皮膚を持って神様を感じておられたと、という風に思うのでございます。
先日から、あー、布教80年の記念祭にこっからも沢山おかげを頂いたんですけれども、佐藤博敏先生のお説教があった中に、そのを言っておられました。桂松平先生という方はこういうお人柄の人であった。変人で、えーまあ大の変人であったという事例をです、お話しておられます。ある時の御大際、いよいよお祭りが開始される。そして、えーここへ先生方が参列される。終わって祝詞座につかれた。今から祝詞の奏上なろうとして、祝詞を開かれた時にです、とこうその、ご神前を見られるとです、ね、海山川の草くさの物のお供え物はもちろんの事だけれども、下関の何々屋というところのかまぼこのお供えをお三方に頂かせて頂きますという、お約束がしてあった。神様と桂先生の中に。ところがその肝心のかまぼこがあがっていない。ね。そこで、えー、お祭りを休止された。そして、その、かまぼこを買うて、さあーそれから慌てて、総代が下関参りましたけれども、今のように、えーその、ハイヤーで行く訳にもいかん。あの、船を海を渡っていかなければなりません。ですから、どうしてもやっぱ二時間三時間はかかる。その間はじっーとそのご神前で待たれ、又それを、そういう、生き生きした神様のひれいをいつも見たり聞いたり、ね、なさっておられる。もんですから、その、あー、信者さん方も水をうったように、その、何時間という時間を待たれたという話が残っておるというて話されました。
これは久留米の初代がお話になっておられたんですけれども、んー、桂先生が御祭主でお祭りをお仕えになられる。それで、二階から下りてこられるその先生方が降りられる、その、(?)真ん中でその「止まれち、ちょっと待て」と仰る。奏楽も中止。ね。「今、氏子が真心込めてその、鯉のお供えをしよるち。だからしばらく待て」と仰る。もう一回2階に上がってからその、んー、待たれた。しばらくした所がもうそれこそ、一匹の大きな鯉を抱いてからもう、カッテの方に走り込んでいった信者があった。ね、その人がある用事で今日は大祭だから急いで帰って来よった所が、その、おー橋の上から下のほうでその、鯉を、取りよる、それにおうた。ところが、そのたまたま大きなその鯉が取れた。だから、それを(?)いわんから、どうでもこうでも分けてくれというて、その、鯉を譲ってもらうて持って見えておって、したもんでしたから時間がかかる、これがまあ桂先生の一つの御神徳なんですけれども、そういう御神徳を皆さんが知っておると、いつも見ておられて、聞いておられた、今時のおー、(?)だったらどうでしょうか、ね、お祭りの半ばに例えば何時間、今から下関までかまぼこを買いにやられるなんていうたら、それこそ、もう、「お祭りを三時間も待てどんなら、もう帰ろう」ち言うちから、帰りよる物もできたかもしれません。ね、もう本当に素晴らしい変人でおありになったということが、まあ、この一例から言うても、分かります。
お互い信心をさせて頂くならばです、なるほど、頭で分からなければなりません、話を聞かせて頂いて、天地の親神様のお恵みなしに、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのであるということ、しかも、それは信心があってもなかっても、全てそうであるという事。ね。ひとすくいの水を頂くにも、一粒のお米を頂くにもです、神様のご恩徳を頂いておるようなものであるという事をです、頭で分かり心で分からせてもらう。体験の上に分からせてもらうのですけれども、それをいよいよ、いわば、この肌をもって分かるようなです、例えば熱いお湯に手を突っ込むと熱っと感じるように、冷たい水に手をつければと「冷たいな」「冷たい」とこういう、そういう実感を持ってです神様を分からせて頂く為の信心の工夫がこの頃だんだんなされていきよらない。それを、なす、ものを、その、どうもおかしいと言ったような、事があるんですね。私は信心をさせて頂くものに幸せというのはね、神様のお働きというものをです身近にいつも、ね、感じておれれるということであると思うのです。ね。
お取次ぎを頂いて一つのもう霊感、ね、いつも、霊感を感じ通しといったような感じ。今日参っておる岡崎さんという、先日から奥さんが、んー(喜び?)をされた。もうこれは大祭まではという所で、前に生まれたら困るもんだから、神様にちゃんと具合をお願いしてあった。 大祭の翌々日だと私は思う、もう、「家内がもうあんまりきつかけんで、いっちょ、生まれるごつお願いして下さい」と。ならお願いをしようと。というてお願いをなさってそのやっぱりお商売にでられた。ところがその、鳥栖のほうに出られた時にその、乗っておった自転車がパンクした。その時に岡崎さんは感じられたんですね、霊感を。はあー、これも家でもパンクしたじゃんち。(笑)ちょうどその時間にパンクしておる。ね。素晴らしいでしょう。ですから、もう、その人にない、もう神様の現れたもんでしょうね。理解だけでも必ず、だからその、哲学的な難しい事を言わなければならんという事ではない。例えば、皆さんが( ? )いうたら笑われますけれども、そういう例えばならその、その事をまたパンクするち、また家にはパンクしたというような事を言うでしょうが。そういう風にしてその事で、いうならその、もっと高尚な事を言われても岡崎さんのほうには通じてこない。
というようにです、神様を身近に感じるという事が有り難い。ね。これも、んー、今朝から(りゅう)さんが、久留米の(りゅう)さんですね、毎日参っておる、今日はいつもよりちょっと遅かった。どうもすみませんでしたというてからその、遅くなりましたというて参ってみえた。昨日、ある所から見事なその、おー、(ひすい?)、(ヒの目?)を頂いかれた。それがおいしかった。それで、明日からの御月並祭にどうでもこの(ひしょ?)をお願いしようという、あの、お供えさせて頂こうと心に思われた。それで、明日の何時ごろ持って来てもらうようにしておったんだけれども、時間になっても持ってこないから、ね、とうとう、やはり神様に心に誓った事は神様にお約束したと同じ事だと思うて、今日は柳川までその買いに行った。あの、大物の真ん中にしてあるのが、ひしなんです、生のひし、ガラス瓶に入れてある。こんな大きなひす。もう綺麗に洗い上げて一番に今出そうとしておられる所に行き合わせた。それが、(?)分かりもしなかった。その後(ひりゅうさん?)さんが考えられるんですね、成程、もう、こう、そこまでこう、もう、あがしこお願いしとったけれども、ね、今回はもう神乍らじゃろう。まあ、この程度のお供えをしようといったようなものではなくてです、ね、わざわざ自動車を買って、わざわざその柳川まで行かれたという事。そこには、お供えをさあ申して下さいと言わんばかりのに綺麗に洗い上げたのを一番に出すばかりのところに行き合わせた。あれだけ買うて帰られた。
ね、この方なんかもう、いうなら大変まあ変人な方です、(いりゅうさん)という方。それは良い意味合いにおいての変人。そこにです、神様のお働きをいわゆる身近に感じる事が出来るでしょう。神様の御働きというもの身近に感じる時にです、私共は安心が生まれ、喜びがあり、信心を頂いている有り難さというものを実感することが出来るのですよ。ね、もちろん頭でも分からなければなりませんから、ご本でも読まなければなりません。分からなければならんから、お話も聞かなくてはなりません。そして、新しい知識、信心の知識というものを身につけていかなくてはならんのだけれども、それをつけただけではならん。ですから、いうならば信心は奇麗事だけではいけないという事。ね。芋なら芋でもです、ね、綺麗に洗い上げてある、芋をどんなに泥の中にいけたってもう芽は出ません。芽が出る為にはやっぱりその隆々とした、芋のその泥のついたような、それを、泥の中にいけて初めて芽が出るようなもの。ですから、ここんところをです私は今日は変人という意味で聞いて頂きたいと思うのです。信心は綺麗事だけではいけない。形式がいくら美しく出来たかってだめだと。時間が2時間3時間、お祭りの時間がなごなっても、それこそ、水をうったような、静かさの中にそのかまぼこ、お三方一台の買い求めてこられるのを、待たれる、そういうものが必要だという事。
ね。信心もだから、頭じゃいかん、理屈じゃいかん。しかも奇麗事ではいかん。夕べでした、遅う私共兄弟、スマヨとそれから、子供達があー、色々信心話をしておりました。妹が豊美と愛子に言っているんです。「あんた達はもちーと娘らしゅうその、んー、まあ折り合いもよお、せないかん」と言う訳。まあ色々とその、この人もどっちかというと、その、人情が勝ちすぎるくらいに、いろいろ、心を配る人です。ところが、私共娘達はそれがないわけです。ですから妹から見ると、娘のなんちゅう事なという風な事をまあいうから、私側から聞いておってそれを言うた。ね。あれでいいと、お前が言うたって、なら、この人達が聞けば良いけれども、聞きゃするまいがち。ね。丁度勝彦の話が出ておったがもうこの人が子供の時の悪さというのは、(?)じゃなかち。ね、けれども私があの時分に言いよったやろうがち。ね。もう中学生の時分から、あの、いつかあの兄弟げんかした。けん、私がそれを、怒ってから、「お前達今日一日断食しろ」と。まだ小学校の3年か4年頃。豊美がまだ小学校の5、6年ぐらいだったと思う。それから、本当に朝からその、なー何を言うても食べん。もう、夕方になったら勝彦はもう、ご飯頂かん。豊美は(?)わざと自転車に乗り回ってから、こう走って騒ぎよる。(あただん1日そりゃ食べんでん、そげん食べんでんよかち?)いうごたる風にしてそのやっておる。ね、だからその時の事を言うて、あの勢いが神様へ向けておる間は大丈夫。(?)ね、善導寺と椛目のああいう難しい問題の中にでも、毎日この人だけは善導寺に参り続けたですから。だから、あれでいい。あれが、あれが狂うてきた時にはそりゃ心配せなでけんけれども、あれが狂わん間は心配する事はいらん。(?)お前が言いよったけれども、見て見れ、だんだんああいうお育てを頂きよろうがと。あの自分私が言いよった。まあだこの小さい、それこそ、ここに座っておって紙芝居が来るとです、泣き出しよった。それでも、やっぱり座りよった。親戚のある時行っても僕は御結界があるからというて泊まらずに帰ってきよった。ね。だからどげん悪かったっちゃ、良い格好は出来んでんよか。あれだけが、命のようにしてそれを、やり続けておる間は、心配する事はいらん、と家内でも家族中に私それを言うて来た。
ね。そりゃもっと娘らしゅう、育っていくということは有り難いけれども、ね、まあ信心がごたごたになったらつまらん。今修行生の方達が一週間の断食をやっておる。それを聞いてから豊美なんか、もうあくる日からその、伴奏をする、して(?)もうそれこそ、本当にこれが五日も六日もご飯頂いておらんとじゃろうかという勢いで、走りまわっております。私の目の前で長女が。ね、そういう事に強いんです。ね。だからそれがあればいいて私言う。ね。そして、そこんところを分からせて頂いて女らしゅうもなり、娘らしゅうにもならせて頂かなきゃほんなもんじゃない。形の上だけではあの人はほんに出来てござる。ね。それこそ、まあ修養とか道徳とかいう意味合いでならです、立派であっても神様の、目からごらんになられてから、ね、おかげを受けられない人が沢山あるです。世の中には。あの人はちった本当におなごらしゅなかとか、ね、なかなか悪そであるとかいうてもです、神様からビシッとそのおかげを頂かれるような人達もある。信心ばかりは私が育てよう、誰が育て、神様の御育てを頂かなければ出来ることじゃない。
ね、それは行儀万端。もうその、ちゃんと教えこんでから、それこそ本当にもう椛目(?)ちいうごたる子供が、んなら、その通り育っていくかというたらそうじゃないです。さあ15,6ぐらいなり、20歳ぐらいになってくるともう親の言う事は絶対聞かんとじゃけん。こまか時だけ。ね、そういう事で育てたのではいかん、というて、んなら、私共のほう(?)にろくそなれと言う意味じゃないですから。今日は、私はね、いわば美しい事ではいかんと言う事。しかも、その事が今日は変人として、教祖が仰る「変人になれと仰る」変人にならなければ、そういう意味合いにおいての変人でなかにゃあいけないと言う事。ね。
神様を身近に頂かせてもらうと。しかも頭やら心だけで分かるのではな、この肌で感じるような、神様を身近に感じさせて頂いて、信心をさせて頂いておるという事が有り難いなあということになってくるのです。その有り難いなあという事がおかげになってくる。ね。出来た人達はそれはなかなか、もう本当にそげなろくそなか事してからと言うたり、ね、それは、もう本当にそうです。けれども、その中にです、ね、神様に向ける、例えば、直ぐい事だというものが一つ、貫かれておるならばです、おかげ頂きます。だから、いつまでもそのままであってはならない。ね。それで私の長男がいつまでもなら悪そ坊主であってはならない。けれども、それから先は神様にお任せをして願わせてもらう。妹がそげん心配になるごたるなら、この人達の為に祈れと。この人達の為に修行をせろと私は言いましたことでございます。
今日、夕方、皆さんが神饌をしておりますから今日は私は何も構いませんでした。そして夕方ここを散歩をしてまわってそこん所を出てこう、自動車の数どん数えよった。そしたら、だーと車が入ってきた、誰かと思うたら高嶋さんだった。そんなら今から現場に連れて行かれるちいうてから、それから、そのままでも、乗ってから現場へやらせてもらい、もう皆が帰った後だった。こっから、あー、御用を頂いておられる人だけが残っておった。丁度、一回りさせて頂いてから、帰ってまいりましたから、私が急におらんごとなったもんだからもう、風呂は沸いておるのに入らんものですから、ね、その、探し回りよったらしい。「はあ、どー(?)あんたがいきよなさるもんじゃけんち、家内が風呂が沸きすぎてどうこんされん、はよ入って下さい」ち言うてから、「そうやったね」ち言うてから入った。ところが、沸きすぎておったけれども、いつも私がいうように、(?)て頂いたら、丁度私が入っていっぱいぐらいであったから、1時間早かったらぬるかとに入らなんか(笑)。ね。それから、高橋さんが背中流させて頂くと言うて入ってきた。だから、上がり際に私がまた、私はまた、本当に神様のお働きを頂いておるんだなあと言う事。ですからもう入った時がいっぱいなら、かかリ湯をかかり、洗わせて頂いたら、だんだん下が沸きよるのだから、私が入ったらそれがいっぱいになる、というのでなからなければ私本当の事ではないとこう自分で思うておる。
だから、上がって、上がる時にねえ、(?)させて頂いたら、丁度、片までのお湯に浸らせて頂いた。神様のこういうお守りご守護を受けておるんだという、実感の中に風呂から上がる事が出来るという事。ところがここん所にです、いわば美しい事ばかりじゃいかんという事があるのです。ね。成程家内がいうように少し沸きすぎておった。濡れたところがまだ熱い。ところが、これ以上(?)よったら、これ以上(?)よったら今度は越さなければならん。そこで私少し辛抱してからちーと我慢してから入る。( ? )そげなこつ辛抱せないかん、越すけん、もったいなか。( ? )ね、その位な手は使わないかんです。その辺が分かるでしょうか、ね、はあ、今日は神様の特別のご守護は受けてなかったという事になったら心から神様を外さなければならない。だから、ちーたぬるか、ちーたアツかぐらいな事は辛抱せな。そこを自分の信心が足りんのだもの。強引に神様に引っ付いていかなきゃいけん。ね。これでいっぱいでも越したらです、それだけ、信心が乱れておるという事なるのですから、ちった辛抱してから、こさんがねちいうてから、辛抱せんならん。上がるだけではちーたぬるかばってんか、それけんちいうてから、なら、とてもつけられんごたる熱かなければ、なら、入ったら風邪を引くと(?)いう事でもない。少しぐらい、少しは熱いという事なんです。そういう中にやはり神様のお働きの中に、一部一厘間違いない働きの中に、こういうおかげを受けておるという実感が私をいつも支えてくれる。ね、そういう手というか、そういう工夫と言うものをいつも私は、成されていかなければいけないとこう思う。
●今朝からも、ご神前に出らせて頂きましたら「調髪」と言うことを頂いた。髪を整える。いわゆるヘアスタイル。ね、男の方達が例えば何にもかぶりもせんで寝るもんじゃけん、そのあたまがこう、ぐじゃぐじゃになってくるでしょうが、私は昔は長くしておったからその経験がある。ね、もうどげんちっくつけたっちゃ、その、ポマードつけたっちゃいう事聞かん。はあ、髪がこげな風にかたかけんなってしまう。(笑)そげん時にはその、( ? )いかんでしょうが。ね。油ぐらいまかれれば、油でよい。でいかんならシックをつけないけん。でなかったらアイロンなってつけてから、いわゆる調髪である。髪を整えなければならない。もちろん、髪を整えると言う事は神様の神、信心の信、ね、私共の信心の心と言うものをいつも、調子をとっておかなけばならないのであり、整えておかねばならないのであるということである。ね。こん位の事が腹が立っちゃならんのだけれども、むしょうに腹が立つ。もうすでに、自分の信心がおかしい。もう少し乱れておる時なんです。と悟らないかんのじゃん。ね、どうして今日はこげんイライラするのだろうか、ね、アイロンが必要な時なんじゃ。どうしてこのような事がこんなに寂しいだろうかと、ね、それこそ、シックなっとつけちから、しっつけなければいかん時。( ? )お参りでもさせて頂かなければおれん時でもあり、ね、変わった修行にでも取り組んでおかげを頂かせてもらおうという元気を出さなければならない時、自分の信心の心を、信心を整えて行く時であるという事を、悟らなければいけない。
自動車に乗る方達に私は言う。もうイライラしたりモヤモヤしたりしたら、それに乗っちゃならんと私は言う。自分の心を整えてからしか乗っちゃでけん。ね。本当合掌して乗れるごたる状態の時でなければ乗れん。車には。ね。なら、ご飯炊くでも同じ事。ちっと(?)遅そなったちゃよかけん自分のいわば、イライラジガジガしよる時のご飯は炊きつけちゃならん。というくらいな気持ちが必要なんだと。ね。もうお参りしてから、こげんやってから(?)ちいうような事になるのじゃないでしょうか。そうですよ。信心がそこがあり難いのであり、そこが楽しいでなからなけばいけん。神様をいつも身近にこの肌で感じれれるところの信心、信心を頂いておる事が有り難い。ね。
為に私は信心をさせて頂くものがですね、いわゆる綺麗事だけではいけないという事。どうしてあの人は強引な人だろうか、私共商売をさせてもらう時にです、ね、引き揚げて帰ってからの、あの何年間のお商売私がおる限り、もう絶対、その売上が、その、商売というても変な商売でしたからね、私の商売は。いわゆる私は闇ブローカー。ね、別に資本がある訳でもない、商品があるわけでもなか。( ? )なかなかむしがよい。ないのは仕方がない。ね。問屋さんとの別にあれがあるわけでもないから、もう、お店さんでも問屋さんでも、ただ、いよいよ売り切らんといったごたるどこにでんあるとじゃん。だから、それを売らせてもらわないかん。資本がいらんわけ。ですからそりゃ、その辺の商いというのは大変難しい商いであった。けれども私はです、もうそれこそもう300円がとなっと、500円がとなっとです、させてもらわなければ私は11時になっても10時になっても参りよったです。これは私は絶対、もうそしてからですねギリギリになった時にですね、ギリギリに必ずおかげを頂いて、私が出させて頂けば必ず商いがある、という確信が持てれるようになった、いわゆる神様が身近に感ずる事が出来るようになる。ね。もちろんその為にはです金光様を念じていく、もう腹がぺこぺこ減ってくるけれどもです、ね、もう、いくらかつかなるまでは、決してそのご飯は食べんちいうごたる意味で、その一生懸命神様に打ち向こうていくか、神様とてもやっぱり、その、印を見せて下さる。その色んな事もやはり変人にならなければ出来んのだと私は思うのです。そういう例を申しますなら、本当にそれこそ、(?)ありません。ね。
今度の27日が久留米が御大祭を奉仕します。私が祭主をさせて頂きます。いつものように、やはり10:30のお祭りでございますから、どうぞみなさんもおー、お繰り合せを頂いてお参りを頂いてもらいたいと思う。ついては私は神様にです、ね、( ? )のほうを必ずさせてもらう。( ? )私共の一番下の娘が2人でえー舞をまわっておる。一人があーここで奉唱すると、一人が組で奉唱する。27日もチャンと学校も休むようにしてから、しておった。ところがその25,6日7日が、んー中学校の試験にあたっておる。だからお父さん休まれんとこういう。
それは困った。成るほど、これはお繰り合せも願わせてもらわなならんけれどもです、これはどこか間違っておったと感じる事と同時にです、けれども、この辺がやはり私の強引な所。神様はどうでもしかし、こちらにひっぱっておかなければです、ね、神様自らの声を頂く為にです、私は方法を考える。今度はね、前夜祭に舞を舞わせようと思っている。試験だから、そりゃ1時間も2時間の時間でもほしいらしいけれども、その時間、きちっと2時間だけ空けておけと。( ? )、そして、お化粧をしたり、お装束を着けたりしてから、お月並祭じゃない、その、おー、んー前夜祭だけでもお父さんだけで仕えると。その中に前夜祭の中に舞いを奉納させて頂く事にするから、そうせろと。まあ、私は言うておるわけなんです。これを例えば、あー今時の流行でいくならです、ね、もう神ながらで、恐らく舞は舞わないのが普通じゃなかろうかとこう思う。けれども、これは私と神様との間の約束なのだから。ね、前夜祭はやはりお祭りのつながりであるから、もうせめて、前夜祭に初めに舞を舞うでは相済まんのだけれども、私の信心の不行き届き、手際が悪いけれども、そこんところをお詫びをさせて頂いて、前夜にとにかく前の晩に見て頂こうというわけなんです。
ね、そういう工夫、そういう努力、例えば私がもう、共励会なら共励会がないちこう決められる。ね、ですから、「家方が丁度忙しい頃になりますから、えー、一日伸ばしてもらうとか2,3日早くしてもらうわけにはいかんでしょうか」と以前は皆言うておったけれども、最近私の信心をみんなが体得しておられますから、ね、それを言われません。けれども確かにお繰り合せを頂きます。いつの場合でも。ね、この辺がです、信心の一つの気骨であり、同時に又、変人になるという事。神様との約束は破られんという生き方なんです。ね、「もう今度の大祭は(?)日曜日にしよう」と、いうような教会がいっぱいあるんですよ。ね。はあ10月の16日と( ? )なか時じゃん。だから( ? )ごたるな風で、あの、大祭の日をわってある所もある。こん( ? )あげんやって集まってくるでしょうが。ね。神様に対するところの一途な物。その一途な物は私は変人のそれに繋がると思う。ね、場合にはそれは強引だという場合もある。本当にそげなこつでよかのと、まちっと娘らしゅうならなといったような事になってくるかもしれんけれどもです、ね、そこは、神様を第一主義にさせて頂いてです、あの人のあそこ、あの人の信心のあそこだけを見ておけばです、ほかんところはどげん人が非難するようなところがあったってかまわん。神様が必ずお引き立てを下さる時が来るのであり、神様が御育てを下さるという事を、確信させて頂ける。
人間の小さい考えでねごちゃごちゃした事を言うてから、複雑ですよ問題が。ね、だから私はです、本当に神乍ら主義という事はもうそのただ、その、おー必死のお供えをしようと思いよった。注文しとったけれども来なかった。これも神乍らじゃろうといったような意味合いでの神乍ではなくてです、ね、神様とのお約束があるのだから(?)、やらせて頂いてという所に初めて生きた神をここに現しておるでしょうが。神様のご都合ちゃ本当に神様にお供えさせて頂いた、いわゆる自分の思いを神様が受け取って下さったということが感じられるでしょうが。ね、そういう意味合いにおいての神乍ら、そういう意味合いでは、(?)「家内がそげんまでしなされんでも」というかもしれない。けれども、「お前が何が分かるか」というて強引に、その辺が私は一途なものでなからなければならない。
ね、そこんところから、私は神様をいよいよ頭で分かるだけではない、心で分かるだけでもない、自分の肌をもって神様を感じることが出来る、そこに信心させて頂く者の幸せ。信心をさせて頂くものの真実の有り難さ、ね、言い換えるならば、桂先生の信心を現代に生かしていくという事はです、ね、もっとまあ垢抜けした意味合いにおいて、椛目でおかげを頂いております事実は。けれどもただ今申しましたような事がです、桂先生のご信心をです、目の当りにいわば見たり聞いたりするように、生かして行く事ではなかろうかと。あんまり綺麗事ばっかり言うてから、( ? )いくら芽が出ようというてもでりゃせん。そのまま、泥の中にいけたら腐れてしまう。そういう事ではいけん。ね、根はついておっても、(?)それに信心の土をかぶさせて頂きゃあ、それこそ隆々と繁昌のおかげになっていくだろう。椛目はそこの辺をですね、頂いていかなければいけないという風に思うです。どうぞ、ただ今お話しの中に申しました27日の御大祭どうぞよろしくおかげ頂きますように、同時にその、石井さん、26日はそんな風に致しますから、だから気持ちだけの前夜祭を仕えさせて頂いて、その時間はまた打ち合わせいたしましてから、えー、(?)奉納だけはさせて頂きたいと思いますからどうぞよろしゅうおかげを頂いかさせて・・・。